青春シンコペーション


第5章 ドキドキ彼女も居候?(3)


次の日。ハンスはいつも通り、朝のトレーニングに出掛けた。美樹は午前中からアニメ関連のスタッフとの打ち合わせのため、7時には家を出ていた。

井倉は昨夜、この家に泊った美樹の両親のためにお茶を入れた。
「ああ、悪いね、井倉君」
リビングでニュースを見ていた父が湯呑みを受け取る。
「あら、そんなに気を使わなくてもいいのよ。ハンスが戻って来たら、すぐに朝食にしますからね」
食事の支度は彼女がしてくれたので、井倉は少々手持ち無沙汰な気がした。黒木も家に帰ってしまったので何だか拍子抜けしたように感じる。

「ミャア」
そんな彼の足元に猫達が絡み付いて来た。
「ああ、おまえ達も昨日はあんまり賑やかで驚いただろう?」
ピッツァとリッツァを交互に撫でながら、井倉が微笑む。ピアノの上に飾られた花。そこに射し込む朝の光。井倉は胸の中で昨日のことを反芻し、感無量になっていた。

「ただいま!」
ハンスが帰って来た。
「あ、先生、お帰りなさい」
井倉がタオルを持って洗面台へ走る。
「ありがと」
ハンスはそこで顔と手を洗うとにっこりと微笑んだ。

「今日はお子様ランチの日ですね」
「はい」
井倉も微笑む。
「でも、今はおうちで朝食を食べちゃってね」
母が笑いながらリビングに料理を運んで来た。
「もちろんです。僕、もうお腹がぺこぺこ」
そうして、朝の平和な時間が過ぎて行った。

午前中、井倉はピアノの基礎であるハノンやツェルニーの練習をしていた。ハンスはシャワーを浴びてさっぱりすると、美樹の父とリビングでオセロゲームに興じていた。
「うーん。お父さんもなかなか手強いですね。あ、井倉君、そこリズム違ってますよ」
時折飛んで来る指示に従いながら、井倉はその日のカリキュラムをこなしていた。平穏な一日になるかと思えた。しかし、そうはならなかったのである。

最初のドアチャイムが鳴ったのは10時40分。
彩香とフリードリッヒが揃ってやって来た。
「まあ、いらっしゃい。昨夜はお疲れ様でした。どうぞ、おあがりくださいな」
美樹の母が彼らをリビングへ招いた。
「彩香さん」
井倉が驚いて振り向く。
「あら、基礎練習をやっていたの? 感心ね。でも、40番辺りで躓いているようではまだまだね」
彩香が澄ました顔で言った。

「どうしたですか? 彩香さん。僕に何かご用でも?」
手の中でオセロのコマを弄びながらハンスが訊いた。
「はい。昨夜、美樹さんには承知していただいているのですが……」
が、ハンスは首を傾げた。
「何のことだろう? 昨日はバタバタとしてたから忘れたですかね」
ハンスはそう言ってフリードリッヒの方を見た。

「あれ? フリードリッヒ、おまえはドイツに帰ったんじゃなかったのか?」
「言っただろう。私は諦めないと……。何が何でも君とパートナーを組んでみせると」
「ふん。凝りない奴だな」
ハンスが呆れる。
「まあ、いいさ。何度来たって答えは変わらないからね」
ハンスは立ち上がると井倉の方を見て言った。
「井倉君、どうしましたか? 続きを弾いてください」
「はい」
井倉が曲を弾き始める。と、そこへ母がアイスティーを持って現れた。

「どうぞ」
差し出されたそれを一口飲んでフリードリッヒが言った。
「ありがとう。これからお世話になります」
覚えたばかりの日本語で、フリードリッヒが挨拶した。
「お世話? それはどういう意味だ?」
それを聞き咎めてハンスが問う。しかし、答えたのは彩香だった。
「わたし達、当分の間、こちらのお宅に居候させていただくことになりましたの」
「居候だって?」
ハンスが唖然として聞き返す。
「そういうことだ。だから、どうぞよろしく」

フリードリッヒがドイツ語と日本語のチャンポンで応える。ハンスは無言でその顔を見つめ、井倉の手がまた止まった。
(そういえば、彩香さん、確かに昨日、そんなことを言ってたような気がしたけど、まさかほんとに……)
井倉の鼓動は急速に高まった。
「聞いてない」
ハンスが言った。
「でも、わたしは、ちゃんと許可をいただいておりますわ。もうすぐ荷物も届くと思いますのよ」

「私は彼女の指導者として付き添って来た。許可はこれからいただく。それでいいだろ?」
「ふざけるな! 彩香さんはともかく、フリードリッヒ、おまえは駄目だ! 僕が認めないからな!」
ハンスは強引に彼を追い出そうとした。
「まあまあ、二人共、よく話し合ってみなさい」
見かねた父が間に入った。が、ハンスは聞かない。
「話し合う? そんな余地なんかないね。さあ、早く出てけよ!」
二人がもめている間に彩香は近づいて来たピッツァの頭を優雅に撫でた。

「まあ、可愛い。人懐こいんですのね。私の家にもシャムが2匹おりますのよ」
「猫がお好き? 昨日はパーティーで人が大勢集まるので地下の部屋に置いていたのよ」
母が説明した。
「ええ。動物は好きです。人間と違って従順ですもの」
彩香が微笑む。そこへ宅配の荷物が届き、美樹の父が玄関で受け取ってくれた。
(彩香さん、本気でここに住むつもりなんだ)
井倉は胸の高鳴りをどう沈めていいのかわからずにどぎまぎしていた。

その時、突然、電話が鳴った。母がそれを受け、井倉を呼んだ。
「井倉君、あなたによ。『クラシックイブ』とかいう雑誌の方ですって……」
「雑誌?」
怪訝な顔で電話を受け取った彼は相手の言葉に困惑した。
「え? 取材ですか? でも、それは僕の一存では……先生に伺ってみませんと……」
井倉はちらとハンスの方を見た。が、彼はまだフリードリッヒと言い争いをしている。しかも言語がドイツ語なので何を言っているかはわからなかった。が、ハンスが彼をここから追い出そうとしているのは理解できた。
「え? ええ。その、先生は今、お取り込み中で……すぐには……。はい。わかりました。のちほど改めてご連絡を……」
井倉がようやく電話を切ると、今度はドアチャイムが鳴った。

「あら、また誰か来たみたいね」
母があたふたと玄関へ向かう。それは黒木だった。昨夜、自宅へ戻ったはずの教授は再び荷物を持ってやって来た。
「いや、参ったよ。家には引っ切り無しに電話が掛かって来るし、やれ謝罪だの、何だのってうるさいんだ。それに、理事長が押し掛けて来て、大学に戻れとか契約違反だとか言って喚くし、私がいたんじゃ妻や娘にも迷惑を掛けてしまいそうなんでね。取り合えずこちらへ避難させてもらおうと思って……」
教授は汗を拭きながら早口で説明した。
「はあ。でも、さっき僕のところにも雑誌社から電話がありましたよ」
井倉が言った。

「何? 妙だな。何故ここがわかったんだ。まさか、理事長め、連絡先を、個人情報を漏らしたんじゃ……」
黒木は憤慨した。
「まあま、黒木さん、落ち着いて。冷たい麦茶でもどうですか?」
母に言われて、教授は恐縮した。
「いや、どうも。すみませんな。いただきます」
「あ、黒木さん。こいつをどっかに捨てて来てくれませんか?」
ハンスがフリードリッヒを指さして叫んだ。

「おや、ヘル バウメン。どうされたんですか?」
「私、日本へ残ることにしました。音大から謝礼金をたくさんもらったので大丈夫。彼と一緒にコンサート活動をするつもりです」
彼は爽やかな笑顔を向けたが、ハンスは怒りが収まらない様子で語気を強めた。
「そんなに謝礼金もらったんなら、ホテルにでも行って泊まれよ! ここは美樹ちゃんの家だ」
「では、ここからなるべく近いホテルに泊まって毎日通うよ。それならいいだろう?」
フリードリッヒはめげずに言った。
「絶対に駄目!」
ハンスが激しく拒絶する。
「つれないことを言うなよ。昨夜は心を合わせて連弾までした仲じゃないか」
フリードリッヒが切なそうに彼を見つめた。が、ハンスは完全に無視を決め込んだようだ。

「ああ、井倉君、取り合えず、彼女をゲストルームに案内してやってください。どうやら荷物も届いたようですしね。あとで運ぶの手伝ってやって……」
ハンスが指示した。
「え? は、はい」
井倉はドキリとして顔を赤らめた。ゲストルームは彼の隣の部屋だったからだ。
(まさか、彩香さんと壁一つ隔てただけの部屋で同居?)
こんな事態になるとは想像していなかった彼は、頭の中が混乱していた。

「何をしてるの? 井倉、さっさと案内しなさいよ」
彼女から高飛車に言われておずおずと言った。
「では、荷物を……」
「先に部屋が見たいわ。荷物はあとからあなたが運んで」
彩香がハンドバッグを渡す。
(ああ、彩香さんのバッグ……あの頃と同じ匂いがする……)
井倉はその感触にじんとしてバッグを見つめた。
「何よ、その目! 気持ち悪いわね!」
彩香の言葉に慌てて視線を逸らす。

「もう、じれったいわね、愚図! ぼうっとしてないで早く案内しなさいってば!」
彼女は井倉を急き立てた。
「は、はい。こっちです」
彼は玄関ホールを通って階段の方へ向かおうとした。その時、またドアチャイムが鳴った。
「あ、はい」
井倉がドアを開けた。そこにはハンスの兄、ルドルフが立っていた。

「井倉君、コンクール優勝おめでとう!」
彼はそう言って花束を渡した。
「あ、ありがとうございます」
井倉が頭を下げる。
「ん? ところで、そちらのお嬢さんは?」
ルドルフが彩香を見て訊いた。
「ああ、こちらは有住彩香さんです。ハンス先生のお兄さんのルドルフ バウアーさんだよ」
井倉が互いを紹介すると、二人は握手を交わした。

「お会いできて光栄です。だったら、彩香さんのためにも花束を用意すべきだったな」
「いえ、私は構いませんのよ。突然、押し掛けて来たんですもの。どうぞ、気を使わないでくださいな」
「では、次の機会にはぜひ。ところで、ハンスはいますか?」
「ええ。リビングの方に……」
井倉が答えると彼はきびきびとした足取りでそちらに向かって歩み去った。

「あれがハンス先生のお兄さん? あまり似ていないのね」
彩香がぽつりと呟いた。
「お母さんが違うらしいです」
「なるほど。まあ、よくあることね」
「では、こちらへ」
井倉が再び歩き始めた時だった。リビングからドイツ語の怒鳴り声が響いた。

「ハンス! 昨日の失態は何だ、説明しろ!」
あまりの迫力にその場にいた全員が息を呑んだ。
「何だよ、いきなり……。僕は何も失態なんかしてないよ」
ハンスが言い返した。
「コンクールに出たそうだな」
「ああ。でも、ちゃんと正体がわからないように気を配ったよ。問題ないだろ?」
「問題ない? 何人の人間に見られたと思ってるんだ! ネットの書き込みやらマスコミやらの記事を隠蔽するのにどれくらい時間を費やしたと思う?」
「女装してたんだ。わかる筈ないよ」
「甘いな。たとえどんな小さな情報でも漏れたところから綻びが生じる。」
「僕はピアニストなんだ。ピアノを弾いて何が悪い?」
ハンスが手のひらでばんっとピアノを叩く。

「だからだ。目立ち過ぎる」
ルドルフが低い声で制する。
「残念だったね。僕は昔から目立ちたがりなんだ」
反抗的な目で兄を睨む。
「ほう。それなら、もう悪さができないように、その手を斬り落とすか?」
皮肉な笑みを浮かべて言う兄を見据えて弟も笑う。
「ふふ。いいの? そんなことしたら、大事なお仕事ができなくなるよ」

二人がもめている間にも、電話が掛かって来ていた。一件は雑誌の取材の申し込み、そしてもう一件はピアノ教室へ参加したいという問い合わせだった。いずれも父と母がうまく対応してくれた。
「黒木さん、彼はいったい……」
フリードリッヒが小声で訊いた。
「単なる兄弟喧嘩だよ。私達が気にすることじゃない」
黒木はそう言うと麦茶のお代わりを取りに台所へ向かった。

「あのう、黒木先生、ハンス先生は……」
二階から降りて来た井倉が心配そうに話し掛けた。
「我々が神経を病むことじゃないさ」
そう言うと、教授は注いだ麦茶を一気に飲んだ。
「でも……」
リビングからは、まだ荒々しい声が漏れ聞こえている。
「おまえは余計な詮索をするんじゃない。自分の進む道だけを見ていろ。いいな?」
「は、はい」
黒木はグラスを洗うとさっと籠に入れた。

(ハンス先生には秘密がある)
井倉はそう確信した。一つは昨日ハンス自身から聞いた後遺症のこと。だが、それだけではない。時々、仕事と称して兄と出掛けたり、ただのピアニストでは考えられないような力を持っていたりする。
(僕を救ってくれたあの時だって……。毎朝おこなっているトレーニングにしたって妙だ。彼にはいったいどんな秘密があるというんだろう?)

――おまえが詮索することじゃない

(黒木先生は知っているんだろうか? それなら、何故僕には教えてくれないんだろう?)
自分は部外者だということなのか。それとも、他に理由があるというのか。井倉は釈然としないまま、歩き去る教授のうしろ姿を見つめた。
(詮索するなと言われたって……)
井倉は玄関ホールの脇に積まれた荷物を見た。彩香宛ての物だ。その箱に触れようとした時、ルドルフがリビングから出て来た。

「あの、お話はもう済んだんですか?」
井倉が尋ねると彼は頷き、靴を履いて言った。
「今は時間がないので、また出直して来るとハンスには伝えました」
「は、はい。では、お気をつけて」
ルドルフが出て行くのとすれ違いにまた来客があった。隣家の雪野だ。
「突然お尋ねしてすみません。実はハンス先生に大切なお願いがありまして……。今、よろしいでしょうか?」
彼女は丁寧に言った。
「あ、はい。ちょっとお待ちくださいね。すぐに先生に聞いてきますので……」

井倉がリビングに戻るとハンスは電話中だった。
「井倉君、彩香さんの荷物を運ぶなら手伝おうか?」
美樹の父が声を掛けて来た。
「いえ、僕だけで大丈夫です。それより、玄関に雪野さんが見えてるんですけど……。ハンス先生にお願いしたいことがあるからって……」
その時、丁度電話を終えたハンスが振り返った。

「桜さんが何か?」
「はい。先生にお話があるそうなんですが……」
「それじゃ、ここへお通しして……」
井倉が彼女を迎えに行くとフリードリッヒが黒木に訊いた。
「ハンスは今忙しいようだから、私、ホテルに行ってます。でも、何処がいいかよくわからない。黒木さん知ってたら教えてください」
「ああ、それなら、海の近くに一軒心当たりがあります。ご案内しましょう」
「ありがとう。助かります。それじゃ、ハンス。またあとで」
フリードリッヒが微笑む。

「二度と来るな! そのまま国へ帰ってくれ!」
ハンスはそちらを見ずにぴしゃりと言った。
「また来るよ」
フリードリッヒはそう言って出て行った。
「くそったれ!」
ハンスが罵る。と、そこへ井倉に案内されて雪野が入って来た。

「あ、桜さん、僕に何か?」
ハンスはにこやかにほほ笑んで訊いた。
「実はピアノを教えていただきたいんです」
「桜さんが?」
「いいえ。私じゃなくて、小学生の女の子なんですけど……」
「いいですよ。曜日や時間などが合えば来週からでも……。仲間が増えたら、他の子ども達も喜びます」
ハンスは散らかった楽譜を集めてピアノの上に戻すと言った。

「ただ、彼女はまだ一度もピアノ習ったことがなくて……」
「構いませんよ。初心者の子も大勢いますから。みんな一緒に楽しくやってます」
「いえ、そうじゃなくて……彼女はスターなんです」
「スター?」
ハンスが怪訝な顔で訊き返す。
「できれば、ここに来ていることは内密にお願いしたいのです」
「どういうことですか?」

「実は今度ドラマでピアノが得意な女の子の役をやることになって……何とか2週間で弾けるようにして欲しいんです」
「2週間?」
井倉が驚いてその顔を見た。
「いいですよ。曲は何がいいですか? バッハのメヌエットくらいなら大丈夫でしょう」
ハンスは動じずに言った。
「では、それでお願いします。今夜にも連れて来ますので」
「わかりました。それじゃ、8時に連れて来てください」
「ありがとうございます」
それを聞くと、雪野は満足して出て行った。

「先生、大丈夫なんですか? あんな約束して……」
思わず井倉がそう訊いた。
「2週間もあれば十分でしょう? 僕だって子どもの頃、ショパンのエチュードの数曲くらい楽勝に弾けましたからね」
(それって……あまりにレベルが違うのでは……?)
井倉は心の中でそう思ったがあえて口には出さなかった。
しかし、厄介事はそれだけでは済まなかった。電話は鳴り続け、来客もあとを絶たなかった。何処から評判を聞いて来たのか、ぜひハンスにピアノを習いたいという生徒が殺到したのだ。

「美樹もまだ戻らないし、もう少しここにいてあげましょうか?」
母が訊いた。
「いえ、大丈夫ですよ。もともと無理を言ってお手伝いしてもらったんですから……」
ハンスが言った。
「そうですよ。我々もおりますので安心なさってください」
黒木も言った。
「僕もコンクール終わりましたし、何でもしますから……」
井倉もそう言うので、両親はその午後、熱海へと出掛けて行った。

「それにしても、美樹ちゃん、遅いです」
ハンスは時計を気にしていた。もう夕方6時を過ぎている。予定では昼過ぎには帰るということになっていたのだ。
「電話くらいくれたっていいのに……」
客の応対に振り回されて、ハンスは機嫌が悪かった。さっきからずっと携帯を握り締めたまま部屋の中を行ったり来たりしている。と、不意にその形態からメロディーが流れた。
「美樹からだ!」
ハンスが急いで電話に出た。が、その表情がみるみる険しくなる。

「遅くなるだって? 何で? 仕事? うん。わかったけど……。それじゃ、気をつけて」
電話を切るとしばらく無言で歩きまわっていた彼が突然振り向いて叫んだ。
「井倉君! みんなでお子様ランチを食べに行くよ!」
今日は午前中からごたごたしていたので、昼は黒木が出前を取ってくれた。だから、レストランへは別の日に行こうということになっていた。ハンスもそれを承知していた筈だったのだが……。
「でもあの、美樹さんは……」
井倉が恐る恐る訊いた。

「彼女は来ません。仕事が長引いたのでスタッフの人達と食事して来るそうです。もうっ! よりによってまた、春那なんかと……」
ハンスは懸命に左手の甲を撫で回し、なにかにじっと耐えていた。その甲には十文字の傷跡がある。ハンスはその傷跡をなぞって唇を噛んだ。
「井倉君、彩香さんにも声を掛けて!」
「は、はい!」
ハンスに怒鳴られ、彼は即座に反応した。

(あれって、確か、4月の終わり頃……)
ゴールデンウイーク前に彼が左手に包帯を巻いていたのを見た。
(大したことはないって言ってたけど……。傷が痛むのかな?)
しかし、それを訊いてはいけないような気がして、井倉は黙っていた。
ハンスは確かに気性の激しいところもあったが、これほど苛々している彼を見たのは初めてだった。フリードリッヒやルドルフに対する怒りとは違う。
(ハンス先生にとって美樹さんは本当に特別な存在なんだ)
真夏の太陽は地平線の先まで熱を帯び、井倉にとってもハンスにとってもまさに波乱の季節が訪れようとしていた。